政治家への道

歴史が立証した“名誉ある孤立”

旧ソ連が崩壊して今年で満10年です。あの日、日本共産党は、旧ソ連や中国が自らの支配下に置こうとして加えた激しい干渉にたいし敢然とたたかい、あらゆる面で「社会主義」に値しないその社会体制の問題点を看破してきた党として、「巨悪の崩壊を歓迎する」と言い切りました。

このことは、私にもとりわけ感慨深いものがあります。私が3年間常駐していた世界民主青年連盟は、資本主義の国を含めてソ連派の組織が圧倒的多数でした。まさに孤立無援の私は、会議のたびに受ける集中砲火に負けじと、なりふりかまわぬ「英語」の連射で応酬していました。それから7年を経て、「真理は勝つ」という言葉の重さを深々とかみ締めたのです。

ところがそんな中でも、会議で激しく対立した人が、個人的にはこっそりと共感を示してくれることが何度もありました。常日頃、国際活動の大先輩から、「断固として正しい主張を貫きながらも、少しでも共感を広げる努力を尽くしなさい」と教えられていましたが、いま、「国会でも同じだな」と感じることがしばしばです。

訪れた国は40数カ国

学生時代、全日本学生自治会総連合(全学連)の副委員長を務めたことがあります。学生組織の役員といっても、その間まったく学校には行かず、専従役員として四六時中の活動でした。そんなとき、ベルリン(統合前の東ドイツの首都)で開かれた「世界青年学生祭典」に日本代表として参加しました。初めての海外渡航でしたが、実はこれがその後の国際活動の出発になったのでした。

大学卒業後、1982年からの3年間は、ハンガリーのブダペストにあった世界民主青年連盟本部に常駐。党本部に入ってからも、「しんぶん赤旗」外信部記者を皮切りに、平和運動局次長、日本平和委員会理事、日本原水協(原水爆禁止日本協議会)常任理事などを歴任する間にも、たびたび会議などでいろいろな国に行く機会を得ました。数えてみると足を踏み入れた国は40数カ国にもなります。

政治への目覚め─沖縄との出会い

私は1952年(昭和27年)、大阪市生まれですが、4歳のとき父の転勤で東京に移り住みました。中学へ入ったところでまた、父が大阪に転勤になりましたが、中高一貫制のいわゆる有名進学校に通っていたため、その後の4年余りは下宿暮しでした。

一浪して入った東京大学経済学部を卒業した後、今度は農学部に学びましたが、やがて日本民主青年同盟の専従者となるために中退しました。「せっかく東大に入ったのに…」と、今はすでに他界している父が残念がったものでした。

このように私の生き方を大きく変えた時代が、いわゆる70年安保当時、学生運動の最高揚期です。私の高校でもさかんに安保や沖縄のことが議論され、集会やデモ行進に参加する生徒もいました。私もその空気に大いに刺激を受けました。とくに核付き返還で沖縄県民の無条件全面復帰への願いを踏みにじるとともに、本土の沖縄化をもたらす「沖縄『返還』協定」の問題では、勉強を装いながら浪人中の身でしばしばデモ行進に参加しました。

それからまもなく、誘われて日本民主青年同盟に加入し、やがて日本共産党に入党する道筋となったのでしたが、その私が今、参議院の「沖縄及び北方問題特別委員会」の委員長を務めていることに、なにか強い縁(えにし)のようなものを感じざるをえません。

車椅子の母と歩いた50年ぶりの広島


学生時代、安保や沖縄の問題を通じて日本共産党員の道を歩み出した私ですが、そこへ導いた力をさらに強く思うのは、母のことです。

初当選を果たした95年の9月、私は母の車椅子を押して広島をおとずれました。50年前、当時14才の母は原爆投下の2日後に、爆心から1キロ余の広島市横川町へ入り、そこで被爆していたのです。以来50年ぶりの広島訪問です。

実のところ、父の死のあと脳梗塞に倒れて車椅子生活の母には、心身の負担が大きすぎるのではないかと、気掛かりでした。しかし母は、意外に冷静でした。原爆資料館では、廃墟を再現した展示に、「私が見たヒロシマはこれ!」と声をあげ、一つ一つ食い入るように見入っていました。

そんな母が突然、声をあげて泣きだしたのは、平和公園の原爆碑に刻まれた「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という碑銘を読んだときでした。「あんなこと繰り返しちゃいけないのに、何千倍もの核兵器を、いつどこで使うつもりなの・・」。それは、地獄を見た生き証人として、悲劇から何ら学ぼうともしない核大国へ放った怒りの叫びなのです。

母はそれまで、子どもの結婚にさしさわるのではと、被爆手帳さえもらわず、他人には被爆のことを話していませんでした。しかし、毎年8月6日になると、「二度と繰り返さないで」と願いをこめるように子供たちに聞かせ続けたのです。「針工場の辺りは死体の山だった。その上に敷かれたベニヤ板の上を、恐る恐る渡ったの。ほんとうに恐かった…」。

「一度はこなければならなかったんだよね」。被爆50周年、ようやく娘の結婚でふんぎりをつけ、日本被団協(日本被爆者団体協議会)のみなさんのご協力で被爆手帳をもらってヒロシマをおとずれた母の言葉でした。

ほこり高き“しんがり候補”

私が議員になったのは二度目の選挙でした。はじめての立候補は1992年です。議員になろうなどとはまったく考えてもおらず、党本部で、平和・反核運動の仕事についていたときでした。

当時、比例代表で当選できるのは数名でしたが、全国できめ細かく活動し、宣伝カーの台数やテレビの放映枠など法律上の権利もできるだけ拡大するために、党が選挙本番の直前に候補者を25名に増やしました。私がその一人になったのですが、名簿順位は25番目でした。

他の政党なら、当選圏からもれたとたん活動をやめてしまうばかりか、離党騒ぎも起きかねないところです。しかし、初体験の候補者活動に私は意気軒昂でした。しんがり候補が人一倍元気なこと自体、私心なき日本共産党の姿そのものと、全国を回って訴え、けっこう演説会の人気者だったと思います。

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